時計の話
こんにちは。パスタイムの中島です。
元々今回は「設計不良」をお伝えする予定でしたが、最近特によくご質問をいただく機会があることから、「巻止めについて」に変更させていただきました。
さて、アンティークウォッチのファンの中で、この「巻止め」という装置についてご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょう?
「そんなもの知っているよ」と言う方は、既に熱心なパスタイムのお客様であるか(?)、そうでなければ、機械の構造についてかなり良く調べている愛好家ではないでしょうか?
この「巻止め」と言う装置、どんな時計にも付いている訳ではありません。
イギリス製の時計に関しては殆ど付いていますが、アメリカ時計においては各社ごく初期の製品の一部(E.Howard、いわゆるオールドハワードは全機種)、スイスやフランス、ドイツで言えば主に1930年頃以前の比較的高級なものに限られて装備された機構です。
また、これは構造上手巻きの時計に限られた機構で、自動巻の時計には装備されませんし、年代的に腕時計で装備されているものはごく一部です。
一般的なスイス時計に多いジェネバ・ストップを始め、実に色々な形状・タイプのものがありますが、基本的には香箱芯の一端に付属し、香箱芯と共に回転する部品(フィンガーピース)とそれに噛み合う歯車型の部品(クロス)によって構成されます。
また、その目的は下記のようなものです。
その1. ゼンマイの有効トルクに限って使用することによる歩度(精度)の向上
その2. ゼンマイ切れのリスク減少
その3. 各歯車に対する負担(ゼンマイ全巻き上げ時の)の軽減
それでは、順にご説明しましょう。
まず、その1.について。
手巻式機械式時計において、ゼンマイ(mainspring)は、最後まで巻いた時に急激なトルク(力)の上昇が起こります。
これは既に皆さんが経験済みのことですが、ゼンマイが完全に解けた状態から巻いてゆくと最初のうちはかなり軽く、徐々に重くなってゆき、そして最後の最後にはギューっと巻き絞られた感じがしてそれ以上巻けなくなりますね。
この「ギュー」っと巻き絞った時にゼンマイの反発力は最大に達し、当然歯車に伝わる力も強くなるので、いきおいテンプの振り角も最大値に達します。
ゼンマイのタイプにも依りますが、全てアンティークウォッチに元々使われていた鋼のゼンマイに関して言うと、この傾向は特に顕著です。
仮に標準的なアメリカの鉄道時計で言うと、例えば一杯巻いた状態からしばらくの間のテンプの振り角を330°前後とすると、12時間後には300°前後、24時間後には280°前後くらいの感じが平均的でしょうか。
そして更にそのまま放っておくと、平均的なモデルでは36時間くらいでテンプの振り角がゼロ、つまり止まってしまいます。
勿論テンプの振り角がこれくらい上下しても、ヒゲゼンマイが巻き上げ式になっていれば歩度は一定になる理屈(等時性)ですし、事実アメリカの鉄道時計の場合、これで1週間に30秒以内の精度が義務付けられていた訳です。
しかし、理屈はあくまでも理屈で、実際の時計においては理屈どおりに行かない部分が多々存在します。
実際のところ、遊びだらけの寸法で製造せざるを得ない市販の時計において(それだけの理由ではありませんが)、完全な等時性は机上の空論で、「どの程度の不完全さで妥協するか」というレベルの違いはあっても、多かれ少なかれやはり振り角が変わると歩度は変化する訳ですね。
そこで、ゼンマイの動力を出来るだけ一定にして、テンプの振り角の変化を押さえよう、という発想になる訳です。
(一定の動力、一定の振り角というと、まず理想的なのはフュジーを使ったチェーン駆動の時計ですが、これはまた別の機会に触れることにしますのでここでは割愛します)
つまり、ゼンマイの巻き始めのフラフラの力と、巻き絞った時の極端に強烈な力を排除して、比較的安定した力だけを使う、という発想です。
巻止め装置の装備された時計の場合、時計の駆動時間は平均して30時間前後に規制されます。
言い換えれば、平均して始めと終わりの3時間分づつくらいのゼンマイの巻きしろを排除している訳ですね。
この手の時計において、一杯までゼンマイを巻き上げたつもりでも、それ以上巻けないのは巻止めがロックするからで、実際のゼンマイの巻きしろは香箱内部に残っています。
つまり、ゼンマイが完全に巻き絞られることはない訳ですね。
そして、時計が動き始めてから時間が経過するにつれて、巻止めの歯車は香箱芯に取り付けられたフィンガーピースによって1周、2周と回され、最後には一枚だけ形状の違う歯にぶつかってロックされ時計が止まります。
巻き絞った時と同様に、時計が止まった時もゼンマイが完全に解けてしまったのではなくて、実際にはまだ香箱内に動く力を残していながら巻止めのロックによって強制的に止められる訳です。
さて、止まった時計をもう一度巻くと、フト気が付くことがあります。
そうです。 リュウズに力を入れ始めた途端に時計が動き出しますね(特別にテンプの重いイングリシュレバーなど、機種によってはそうでないものもあります)
勿論、それぞれの時計の設計や状態によって一概には言えませんが、一般的に言って巻止め付きの時計はゼンマイを巻くとすぐに動き出し、そうでない時計は動き出すまでに何巻きかかかる場合が多いのです。
これは、時計が止まっている状態のときに、完全にゼンマイの解けてしまっている一般の時計と、あらかじめある程度のトルクが最初から残っている巻止め付きの時計の違いと言えます。
余談ですが、曲を奏でるペースを出来るだけ一定に保つ必要のあるオルゴールの香箱にも、巻止めの装備されているものが多く見られますね。
いずれにしても、巻止め装置によってゼンマイのトルク変動の少ない部分だけを使う→テンプの振り角の変化が少なくなる→歩度が向上する
という理屈がお分かりでしょうか?
ここで少々へそ曲がりな私などは、「だったらそんなもの付いていなくても、最初から一杯まで巻かずに止めればいいじゃないか。それで、30時間くらい経ったらそれ以上ゼンマイが解ける前に巻いてしまえば同じことじゃないか」と考えます。
この理屈はある意味大間違いではないのですが、しかし、毎回なんの目安もなく同じトルク・同じ香箱芯の回転数で止めるのはまず無理でしょうし、出来たとしても鬱陶しくて仕方ありませんね。
ということで、巻止めが付いているのです。
次に、その2. のゼンマイ切れリスクの減少についてです。
これも既に経験済みの方がいらっしゃると思いますが、時計を巻いていてゼンマイが切れると、なんとも嫌な感触がありますよね。
「ボソッ」とか「ビシッ」とかいって。その後はスルスルといつまでたっても巻き終わらなくなる、、。
ちなみにこれは巻止めのない時計の場合で、巻止め付きの時計はゼンマイが切れていても巻き止まってしまうので、不調の原因がゼンマイ切れのせいだと気づかない方も多いようです。
いずれにしても、ゼンマイの切れた際のショックで香箱が強く反転することによって、香箱の歯や2番車のカナが曲がったり折れたりすることも珍しくありません。
特に、アメリカの時計の一部におけるSafety Pinion(香箱反転のショックを、ネジ式の2番車のカナが緩むことによって逃がす機構)のような、何らかの対策が取られていない時計の場合、ゼンマイ切れは深刻なダメージになり得ます。
こうなると、何とか防ぎたいですよね。
ゼンマイが切れるのは巻いている時ばかりではないのですが、最も確率が高いのは当然一杯まで巻き絞っている時です。
そして上述したゼンマイ切れによるダメージは、切れた瞬間に強い力が掛かっていればいるほどひどくなります。
つまり、巻止めを付けることによって、ゼンマイ切れをなくすことは出来なくても、相当リスクが減少することは間違いありません。
最後に、その3.の歯車に対する負担の軽減です。
ゼンマイを一杯まで巻き絞った際に起こる急激なトルクの上昇については前述したとおりですが、精度の悪化やゼンマイ切れのリスク以外に問題になるのは、歯車に対する負担です。
特に香箱の力が直接伝わる2番車において、これはしばしば故障の原因になります。
通常、2番車を含む各輪列の歯車は、真鍮や金でできた直径の大きくて枚数の多い「歯」と、鋼でできていて直径が小さく、枚数の少ない「カナ」がかしめ付けられて出来ています。
少々説明を加えると、「カナ」と車軸は元々鋼の一体で作られ(前述のSafety Pinionは別です)、別に作られた「歯」の中心にかしめ付けられて一緒に回るようになっている訳です。
大概の時計において、この「かしめ」の保持力はかなり強いのですが、それでもたまにあまりのゼンマイの力に耐えかねて滑ってしまうものがあります。
滑ってしまうと、時・分針は本来のペースと関係なくクルクルと回ってしまいますから、見る見るうちに時計は進んだ時間を示すことになりますね。
この故障は多くの場合、過去にかしめを外した修理歴があったり、使われているゼンマイが強すぎることが原因になっていますが、そうでない場合も確かにあります。
この歯車の「かしめ」に掛かる負担に関しても、巻止めの付いた時計の場合は大幅にリスクが回避できる理屈になります(但し、巻き止めがロックしているのにも拘わらずそのまま力を掛け続ければ逆効果になりますが、、。)
巻止めの目的・効果に関しては、おおよそ以上の通りです。
ちなみに、冒頭で触れた通り、おおよそ1930年頃から今日に掛けて作られている時計の大半は巻止めを装備していません。
これは、製造コストの削減、S字型で比較的トルク変動が少ない上に切れない・へたらない形状記憶合金ゼンマイの登場、ゼンマイを巻き絞ってもある程度余分な力を戻す角穴車のクリック(コハゼ)の開発、などの理由によるものです。
それでも、まあ巻止めが付いていれば、それなりのメリットはあるのですが、、。
それはそうと、実はこの「巻止め」、アンティークの時計においては欠損しているものが実に多い装置です。
修理でお預かりする時計で言うと、おおよそ半々、つまり2つに一つは欠損しているといった具合でしょうか。
この手の時計に慣れない修理士にとっては確かに厄介な代物のようで、普通の香箱のようにそのまま蓋を開けて飛ばしてしまったり、適切な初期トルクのセットに窮して取り去ってしまう例もあるようです。
実は、何を隠そうこの私も、若き頃(?)にうっかりしてそのまま蓋を開け、店の端までフィンガーピースを飛ばした経験があります。
幸い、部品は壊れずに済みましたが、、。
さて、それはさておいて、元々装備していない時計の場合と違って、例えば本来あるはずのフィンガーピースを外したままにしてゼンマイを巻くとどうなるでしょう?
おそらく感触的にはオーナーが気づくことはないでしょうが、大半のモデルにおいては、ゼンマイを巻くたびに香箱芯が地板の穴周辺を削り取っていってしまうことになりますので、これは絶対に禁物です。
以前、別の項でも触れましたが、ある時ご来店いただいたお客様からこんなお話しを聞きました。
「以前は一杯巻いても30時間しか動かなかったパテックの懐中時計を、ある修理屋さんに出して分解掃除してもらったら、36時間以上動くようになったよ。費用も良心的だし本当に良かった!!」
実際、その方は無邪気に(?)喜んでいらっしゃったのですが、、、、さて、ここまで拙文にお付き合いいただいた読者の方には、その本当の意味がお分かりになるでしょう。
そうです。
その時計は、元々付いていた巻止めが取り去られたか、もしくは壊されてしまったということになるのです。
お金を払って大切な時計を壊されるほどバカバカしいことはありませんね。
皆さん、くれぐれもご注意下さいませ。
次回は「フュジーについて」を予定しています。