修理・レストア
NOTICE:This article written in Japanese.
今回の時計はフュジーを使った鎖引き(チェーンドライブ)のイングリッシュレバー懐中時計(1853年製)です。
製造当時から160年近く経った、正真正銘のアンティークウォッチです。
文字盤上に、Railway Timekeeper とありますが、これはこの時計がイギリスにおける鉄道時計であったことを示しています。
分解されて歯車やフュジーを取り除かれた地板です。
イギリス時計の典型的な仕様のギルトムーブメントです。
これは、真鍮の板材に水銀で溶かした金を乗せた後に火の中に入れ、水銀を蒸発させて金だけを付着させるという工法で、ファイアーギルトとも呼ばれます。
電気的なメッキと比較して耐久性に優れているのが特徴ですが、蒸発する水銀を吸うと大変危険な為今日では一部の金工師のみによって行われているようです。
フュジーの主な構成パーツです。
フュジーはゼンマイのトルク変動を是正して歯車に伝える役目をした歯車です。
画像左に見えるのが鋼の動力維持装置(通称ハリソンスプリング)を内包した歯車、右上が1対の逆転防止用クリックとそのテンションスプリングの付属したフュジークリック用ラチェット歯車、右下がその逆転防止クリックと噛み合うラチェット型歯車を内包したフュジーの螺旋部分(この写真では裏返しの為螺旋は見えません)です。
フュジーの付属した鎖引きの時計の場合、ゼンマイを巻き上げている間はフュジーに動力の進行方向と逆の力が掛かるために一時的に時計を止めてしまうことになります。
つまり、せっかく時間の合っている時計の表示時刻がゼンマイを巻くことによって遅れてしまう訳ですね。
これを防ぐ為に、ゼンマイの巻き上げ動作中フュジーを逆転している間も内包されたスプリングが一定量の力を歯車に送り続ける働きをするのが、18世紀のイギリスの時計師・ジョンハリソンの考案した動力維持装置・通称ハリソンスプリングです。
これは、より厳密な時間の計測が必要なクロノメーター脱進機の時計には必ず付属していますが、ハリソンがこの機構を考案する以前の時計は勿論のこと、それ以降も18世紀〜19世紀の初頭頃までの多くのバージ式やシリンダー式の懐中時計などには搭載されていません。
このハリソンスプリングが鎖引きの時計に一般的に普及するのは、19世紀に入ってこの時計のようなレバー式脱進機(イングリッシュレバー)の時計が普及し始めてからとなります。
先ほどの3つのパーツを重ね合わせ、青焼きのキャップをはめてクサビで固定したフュジーの裏側です。
フュジーの6時半位の位置に見えるのは、四角の穴とハリソンスプリングのピンで、この四角い穴の余白分だけしなったハリソンスプリングが動力を送る仕組みになっています。
今現在ハリソンスプリングのピンは四角い穴の左端に位置していますが、最終的に時計に組み込まれ、香箱内のゼンマイのトルクによって時計と反対回りに力が掛かると穴の右端まで持っていかれます。
フュジーの表側です。
上部中央の角型のシャフトはゼンマイを巻き上げる際に鍵を差し込んで回す部分です。
その周囲左下に見える尖った爪状の部分はストップワーク(巻上げ停止機能)のツメで、ゼンマイの巻上げ動作によってフュジーの最上段まで鎖が巻きつけられると、受け板の裏側に取り付けられたストップレバーの先端とこのツメが衝突して強制的に巻上げを停止させる仕組みになっています。
フュジー付きの時計のゼンマイを巻き上げると、最後に「コツッ」という硬い感触があってそれ以上巻けなくなりますが、あれはまさにこの鋼の部品同士の衝突した感触なのです。
地板に一通りの部品をセットした状態です。
画像中フュジーのラチェット歯車に接触して見えるのはクリックとそのテンションスプリングです。
ゼンマイの巻上げの際にゼンマイの動力は完全に消滅しますが、元々フュジー内に蓄えてあったハリソンスプリングの力はこのクリックによって保持され時計の進行方向に送られることになります。
つまりゼンマイの巻き上げ動作中に関しては、時計はゼンマイで動いているのではなくハリソンスプリングの力だけで動いていることになります。
受け板をひっくり返したところです。
受け板中央やや左上に見えるルビーは天真下ホゾ(軸)の穴石です(伏せ石は外してある状態)。
また、受け板の7時位置くらいのところに青焼きの平たいストップレバーと9時位置くらいから細長く伸びるテンションスプリングが見えます。
ゼンマイを巻き上げるうちにフュジーの上段に巻きついていった鎖がこのストップレバーを段々と上に押し上げてゆき、最終段まで巻きついたところでレバーの先端とフュジー上部のツメと衝突→巻き上げ完了となります。
青焼きのレバーの中ほどに青焼きのはげた白っぽい一本の線が横切って見えますが、ここがチェーンの当たるところです。
受け板をセットし、ネジ止めしました。
次に香箱とフュジーをチェーンで繋ぎます。
この際、チェーンが外れないようにする為にも時計の最低必要トルクを設定する為にも、最初からある程度のテンションを掛けておく必要があります。
ちなみに、この「ある程度」のテンションは大変重要で、これが弱すぎればフュジーを搭載しているにもかかわらずゼンマイの巻き始めは巻き終わりに対してテンプの振り角が小さくなり、強すぎるとその逆になったりストップワークが作動する前にゼンマイが巻けなくなったりしてしまいます。
かつてはこの初期トルクの設定の為の専用工具が存在し(長い棒の途中に任意の位置に移動できる重りが付属しこれをフュジーの角棒にセットする仕様のアジャスティングロッドと呼ばれるもの)、これは比較的容易に製作できますが、これを用いなくても巻き上げ初期から末期までのテンプの振り角を観察しながらテンションを調整することで設定可能です。
余談になりますが、フュジーの螺旋の形状は、巻き上げ初期と末期のトルク変動の大きい古典的な鋼ゼンマイに対応させて設定されている為、近年一般的なS字型の形状記憶合金ゼンマイはフュジーを搭載した時計には適しません。
二バフレックスに代表されるこれら記憶形状合金のゼンマイは、「切れにくい」「巻き始めと巻き終わりの力が比較的平均している」素晴らしいもので、パスタイムでも通常の時計には全て使用しています。
しかしながら、これらをフュジー仕様の時計に使用した場合、逆に動力は不均一に伝達されることになりますので(巻き上げ前期はトルクが強く末期は弱くなる)全く本末転倒ということになりますね。
フュジーのチェーンです。
時計によって長さや太さは異なりますが、この時計の場合おおよそ140個くらいの鋼のコマがリベット留めされて出来ています。
たまに切れてしまうことがありますが、その場合は繋ぎ直すことが可能です(修理・整備例のフュジーチェーン修理ご参照下さい)
但し、全体に錆がひどかったり折れ曲がっていたりする場合は一箇所を繋いでもまたすぐに別の部分が切れますので、状態の良いチェーンと交換する方が現実的です。
テンプを装着しました。
このタイプの場合、ヒゲゼンマイのヒゲ持ちはテンプ受けではなく受け板にネジ止めされます。
ご覧のようにテンプは鋼の一体構造ですから、温度変化に対する補正能力はありません。
気温が上がればヒゲゼンマイの弾性は弱まって時計は遅れ、下がれば逆に進む、という訳ですがこれは仕様的なものですから仕方ありません。
テンプ受けを装着しムーブメントの組み立てが完成しました。
テンプの伏せ石は青焼きのシャトンに包まれたローズカットのダイアモンドのネジ止めです。
ダイアル下の画像です。
150年以上経っていることを考えるととても大切に扱われてきたことが見て取れますね。
定期的な整備さえ怠らなければ、間違いなく今後も何百年も生き続ける時計です。